●天目上人墓所 |
|
開本山妙顕寺初祖天目日盛上人(かいほんざんみょうけんじしょそてんもくにっせいしょうにん)
中老僧天目上人は唐沢城主佐野家を教化し、家老若田部源五郎光盛公「末孫は若田部久吉家」が帰依して、下野国安蘇郡奈良淵村に一宇を建立しました。時嘉元二年(1304年)。
天目上人の俗性は畠山、母は日蓮聖人在世中の熱原法難(あつはらほうなん)で知られる、熱原甚四郎の娘であります。熱原法難とは、弘安二年(1279年)駿河国(静岡県)熱原郷に日蓮聖人の信徒大弾圧があり、熱原甚四郎は焼打ちされ、多数の信徒が殺害された事件です。
日蓮聖人はこれをいたく悲しみ、幼き天目上人に心をよせました。天目上人は美濃闍梨(みのあじゃり)と称し、永仁二年時の将軍足利義教より寺領三百石を寄進され、佐野家の祈願所として開本山妙顕寺を建立し、初祖となりました。
天目上人が日蓮聖人にまみえたのはまだ幼い頃であり、日蓮聖人入滅後は六老僧の一人であります日向聖人(にっこうしょうにん)の師事をうけた唯一の僧であります。
天目上人は開本山妙顕寺を建立開創後もたゆまず布教に専念し、常陸国(茨城県)笠間郷においてお亡くなりになり、山中のお寺であります修多罹寺に葬られました。
今日ここに七百有余年の歳月を経て分骨し開本山妙顕寺に帰られましたことを宗祖日蓮聖人に報告いたしました。時平成九年十一月二十八日。その後同年十二月五日ここに供養を行いました。
想うに天目上人の崇高なる精神、それは時の将軍より寺領三百石を拝領し、領主、家老の庇護のもと一宇を構え、安穏に過ごすことが出来たであろうに、あえて他国の見知らぬ土地へと布教に専念なされたことは、宗祖日蓮聖人の心髄であり、人を愛し、国を憂うるなにものでもありません。
国家意識の欠如をとわれている現代、日本国を愛することの出来ない人間が世界の人類を愛することが出来るでありましょうか。
宗祖日蓮聖人、開本山妙顕寺初祖天目上人は、今もここに生きております。
平成十一年九月吉日 責任者 原 茂雄 |
|
●禹範善・黄鉄のお墓
|
|
禹範善(ウ・ボムソン)について
須永元(すながはじめ)との関係から、妙顕寺に禹範善と黄鉄のお墓がある。
須永元(1868年〜1942年)は、下野国安蘇郡天明町(現・栃木県佐野市)に豪農の子として生まれる。明治時代の漢学者、実業家、朝鮮独立運動を支援した活動家。
須永元が交流した人には、二松学舎の創立者であり東京帝国大学の教授であった三島中洲、元彦根藩家老の岡本黄石、陸軍中将・子爵の三浦悟楼、足尾銅山鉱毒事件を告発した政治家の田中正造、勝海舟、福沢諭吉、伊藤博文などがいる。
また、李氏朝鮮王朝時代からの日本への亡命者とも深い交流がある。甲申の変に関与した朝鮮独立運動の志士・金玉均、朴泳孝、そして閔妃(みんび)暗殺事件に関与したとされる禹範善、そして黄鉄などである。
1942年(昭和17年)7月1日、75歳の生涯を閉じたが、葬儀には頭山満を始め多くの政財界関係者が参列し、ここ妙顕寺にて行われた。
禹範善(1858年〜1903年)は1895年の乙未事変で閔妃殺害に関与したとされる朝鮮王朝末期の武官。日本に亡命中に日本人の酒井ナカと結婚。1903年に広島県呉に転居、引っ越し当日に他の事件で亡命していた高永根に暗殺される。その墓は一旦東京の青山墓地に葬られましたが、須永元によって妙顕寺に移されます。
のちに「韓国近代農業の父」と呼ばれる禹長春(ウ・ジャンチュン、通名:須永長春/すながながはる、1898年〜1959年)は、禹範善と酒井ナカの長男。1924年、禹長春は日本人女性・渡辺小春と結婚。父の恩人の須永家に養子に入った。禹長春には6人の子供がおり、四女・朝子は京セラ創業者・稲盛和夫に嫁いでいる。
黄鉄について
黄鉄は、1895年の閔妃(みんび)暗殺事件に関係して日本に亡命し、山口鉄郎と日本名に変え詩文・書画をもって各地を漫遊した。その後に韓国統監伊藤博文の知遇を得て農商工部協弁となる。しかし、日韓併合後は政治を離れ、日本に移住して書画の道に専念した。黄鉄は過去帳によると東京本郷の東片町(ひがしかたまち)で亡くなったが、お墓は妙顕寺にあります。音楽評論家の田川律は、黄鉄のお孫さんである。 |
|
●金玉均揮毫による山号扁額「開本山」
|
|
金玉均揮毫による山号扁額「開本山」 |
|
|
|
須永元(すながはじめ)との関係から、金玉均揮毫による山号扁額「開本山」がある。
金玉均(キム・オッキュン、1851年〜1894年)は、朝鮮の政治家。李朝時代後期の開明派。
日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。1884年、閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。
事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。その後、日本に亡命し、須永元との交流が始まる。金玉均は、佐野の須永邸にかなりの日数かくまわれた。
1894年、上海で閔妃の刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)に暗殺される。 |
|
●三浦梧楼陸軍中将の名が刻まれた御影石の「水盤」 |
|
三浦梧楼陸軍中将の名が刻まれた御影石の「水盤」 |
|
|
|
三浦梧楼(みうらごろう、1847年〜1926年)は日本の武士、軍人、政治家。陸軍中将、子爵。
1895年の閔妃(みんび)暗殺事件(当時は朝鮮公使)の首謀者だと言われている。
三浦梧楼に書いてもらったといわれる御影石の水盤。
そこには「遠塵離垢(おんじんりく)」の四文字が掘られており、裏面には須永元の父である須永市重郎の名前が刻んである。
遠塵離垢(おんじんりく)とは、この世における迷いを断ち切るという意。「遠塵」は汚れから遠ざかること。
「離垢」は煩悩(ぼんのう)を離脱すること。 |
|
●水神様 |
|
水神様 |
|
|
|
須永邸から移築してきた水神様。立派な彫り物で飾られた白木づくりのおやしろ。隣の石碑には菊沢水神と寛延三年(1750年)の文字を読みとることができる。
水神由来記
水は一切の元であり九星では一白水星天地宇宙のはじめとして扱われています。
当山の堂宇は元大橋町の須永元宅に祭られてあったものを昭和四十年九月当山第四十四世日精上人が佐野市より払下を受け荒れはて放置されたものを移築す。
その後昭和六十三年十一月院代雄章妻菩薩の為大改修屋根瓦は寺護持会にてふき面目を一新例年十二月の第一酉の日須永一族と檀徒が中心となり祭典を行います。
平成五年正月 第四十五代院代 日叡記
|