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●「埋もれ木庵記」(1) 事感院日琢上人 |
平成二十五年九月 |
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総本山の身延山久遠寺より、丁重な歴代法要のご案内をいただいた。身延山第六十九世事感院日琢上人(天命五年1785〜元治元年1864)行年八十歳の第百五十年遠忌のお知らせである。私のところに案内状が届いたのは日琢上人が東南湖 長久寺十世、飯高檀林三百二世化主、本山佐野妙顕寺准歴、大本山小湊誕生寺五十三世を経て、総本山身延山六十九世法主猊下に就任されたことによると案内状に記されていた。
佐野妙顕寺の本堂屋根改修工事を現在進めているが、屋根の瓦を下ろしたところ、その鬼瓦には慶応二年と記されていた。慶応二年(1866)といえば日琢上人御遷化の1864年から二年後であるが一月二十一に薩長同盟が成立一月二十三日には寺田屋で坂本龍馬が襲撃されている。妙顕寺の屋根瓦もずいぶん歴史を経て風化しているものと感慨深い。また御遷化一年前の文久三年(1863年)には生麦事件が起きたが薩摩藩士に刀で斬りつけられて死亡したイギリス人の商人チャールズ・リチャードソンの生前の写真が初めて見つかり、九月十四日から横浜市の資料館で公開されることになった。
この文久三年(1863年)には私の高祖父近藤鳳音日遊が三十五歳で千葉県多古の中村檀林で玄頭職を拝命し「法華玄義を講するに音聲爽爽として条理殊に明晰たれば四座の群衆驚嘆せざる事無し。」との記述がある。何かその時代から日琢上人が警告されているのではないか。
余談であるが高祖父近藤日遊師は、尾州海東郡津島村で生まれ、八歳の時剃髪して、十四歳の時、遠く故郷を去って下総に出て中村檀林に入って業を修め、二十二歳の時、加賀 立像寺 充洽園にて優陀那日輝上人の鎚下に帰している。後明治十七年、牧口徳太郎なる人に北海道より請われ、北海道小樽妙龍寺に晋山している。
文久三年(1863年)は時代の大きな転換点であり、本宗でもこの頃外国船撃退の大祈祷会が蒙古退治の旗曼荼羅を掲げ奉修されたそうである。
現在平成二十五年も尖閣諸島、竹島、北方領土を巡って外国船の示威行動があり国難の時代である。日本の安全と世界平和を大曼荼羅ご本尊に祈願し、事感院日琢上人、智行院日勇上人の御報恩としたい。 |
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